常昌院 じょうしょういん
224にんのへいたいさんのもくぞうがあるお寺 じょうしょういん
おかべから やいづのほうに いくとちゅうでこのかんばんをみたことあるかな?
このおくに じょうしょういんはあります。
うつたにの さんとうのちょっと奥にはいったところに じょうしょういんはあります。
入り口はきゅうなさかだから気をつけてね。
めいじ40ねんにつくられた ほんどう。
にちろせんそうという、日本とロシアという国のせんそうにかったきねんとして せんそうで命をおとされたかたの こうせきをたたえる たてものとしてつくられました。
ほんどうのなかには 224人のせんそうでなくなられたかたの せいぜんのすがたをしたきのぞうが まつられています。
せんそうは 人と人とがころしあう とてもかなしいことなので、もうこの先ずっとおこしてはいけないものです。
でも わたしたちのそせんは つらくかなしいせんそうを のりこえてきてくれたから 今わたしたちは生きていられるのです。
このさき、せんそうのことをしっかりべんきょうして そせんにかんしゃして、にどどおこさないように みんなでがんばっていきましょう。
キーワードは・・・木にちゅういしてみよう。
若宮八幡宮 わかみやはちまんぐう
みかの原 わきて流るる 泉川
いつみきとてか 恋しかるらむ
これは、百人一首のなかの一つで、中納言兼輔さんの和歌です。
兼輔さんは、三十六歌仙の一人でもある平安時代の和歌の名人です。
本名は藤原兼輔といい、賀茂川のほとりに住んでいたため、「堤」という通称で呼ばれていたそうです。
「中納言」というのは、「太政官」の次の位で、当時醍醐天皇に直接仕える身分の高い方です。
そんなすごい方が、908年という平安時代の初期に、仮宿の朝日山のふもとに住まわれ、信仰が深かった京都の「石清水八幡宮」の神の御分霊を、岡部山の南端の通称松山というこの地にお迎えしてお祀りされたのが、若宮八幡宮なのです。
八幡神は、元は九州宇佐氏が守護神として祀っていた神様で、奈良時代の初め頃、大仏建立の成就を願って奈良に祀られた、「手向山八幡宮」が、大和朝廷の信仰を得た初めで、860年に国の災いや戦乱をしずめ国の平安を守る神として京都の男山に祀られたのが「石清水八幡宮」なのです。
つまり、そのわずか48年後の908年に若宮八幡宮が祀られていることから、その期待した信仰の深さがわかります。
八幡神は、その後、源氏の守り神としても信仰され、初めから仏教と習合した、特殊な信仰形態で全国に広まって行きました。
現在神社本庁に登録されている神社は約8万社あるそうですが、その約3分の1が八幡様なのだそうで、いかに全国で八幡様が進行されているかがわかります。
その数多い神社のなかで、日本の歴史上トップクラスの貴族が祀った岡部の「若宮八幡宮」のすごさがお分かりいただけると思います。
岡部町内最古の木造建築物 若宮八幡宮本殿
本殿は、最初に源義家という人が1090年ころに造営したそうです。
その後、1150年頃に岡部権守清綱という人が造営し、それ以降は、岡部氏によってずっと造営と修復が行われて来たそうです。
今の建物は、かれこれ330年前の貞享三年(1686年)に造られたもので、岡部町内の木造建築物としては、最古のものだと推定されるそうです。
すごいですね。
立石神社 たていしじんじゃ
立石神社は、素戔嗚命(すさのうのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とした由緒ある神社です。
創立は1598年、氏子が疫病に悩んでいた時に、青山八幡宮の摂社牛頭天皇社(ごずてんのうしゃ)の御分霊をお祀りしたところ、疫病はしだいに鎮まったので、それ以来氏神としてお祀りしてきました。
立石神社の本殿は4回造り変え、現在の本殿は二百年前ものです。
村の古老の話によれば、光泰寺の薬師堂は、もと
さんどうの とちゅうに「使いの牛」がすわっています。
古くから、このうしのきずやびょうきのばしょをなでると、よくなるといわれています。
あと、あたまをさするとちえをさずかり、かしこくなるともいわれています。
うしのあたまとじぶんのあたまをこうごになでてみよう。
キーワードは
専称寺 せんしょうじ
江戸時代から続く、「一ト火灸(ひとひきゅう)」の灸療法 専称寺
せんしょうじは、今から420ねんよりまえ、せんごくじだいに じょうどしゅうのお寺としてたてられました。
せんしょうじでは、えどじだいのはじめごろ 「一ト火灸(ひとひきゅう)」というお灸のやり方をおしえてもらい そのころから東海道をたびするひとびとの ちりょうをしてきました。
そして、えどじだいからつづき、今でもお灸のちりょうがおこなわれています。
専称寺は、宇津ノ谷峠に隣接した岡部宿の中心地にあり、往来する人々の安全を見守ってきたお寺です。
曹洞宗が山の麓に位置するのに対し、浄土宗の専称寺が街中にあるのも宗派の関係によるところだそうです。
【岡小PTAから保護者のみなさまへのお願い】
専称寺さんでは、市の文化財の管理のため、本堂の見学は通常予約制となっておりますので、見学を希望する場合は電話にて予約をお願いします。
電話 054-667-0242
ただし、令和2年11月23日(月・祝)、28日(土)は行事等のため見学することはできません。
もし、見学をされる場合は、施設内で破損などの事故が起きないよう、くれぐれもご注意ください。
【見学される方へのお願い】
見学される場合、は感染症防止対策のうえ、しずかにご覧いただくようお願いします。
本堂に入る場合、つぎのことをお守りください。
①マスクを着用してください。
②入り口で手指の消毒をお願いします。
③本堂正面ご本尊阿弥陀仏に合掌礼拝をお願いします。
④正面床板部分は入らないでください。
④密にならないようにゆっくりとソーシャルディスタンスを保ちながらご覧ください。
ほんどうのなかは、きちょうなものがたくさんならんでいるから、しずかに見させてもらいましょう。
ほんどうにはいったら、まずしょうめんの「ごほんぞん あみだぶつ」に てをあわせて れい をして ごあいさつしてね。
ゆか板のところは入らないようにしてね。
やくしどうは、ほんどうからはいることができます。
むかしから、ちりょうにおとずれたひとびとが、びょうきなどをなおしてくれるというやくしにょらいにおまいりし、りょうがわのまもりほんぞんをおまいりしてから ちりょうをうけていました。
専称寺の現在も行われているお灸の治療「一ト火灸(ひとひきゅう)」の歴史は、江戸時代にさかのぼります。
江戸時代の初め頃、幡随意上人(ばんずいいしょうにん)という学僧から伝授してもらったのが始まりです。
この方は、徳川幕府の鎖国政策によって家康の命を受け1612年に九州有馬のキリシタン折伏(しゃくぶく)によってキリスト教をやめさせる事業を行った人物でもあったそうです。
一ト火灸療法は、代々の住職に伝授され、街道を往来する人々や村の住人に治療が行われてきました。そして、現在もこの療法にあずかる人々が訪れています。
たかさ50センチメートルで、さいぎょうほうしの たびすがたをしたぞうです。
えどじだいの きょうほう11ねん(1726ねん)につくられました。
西行法師の旅姿をした西行座像木像は、元は十石坂観音堂(岡部町岡部川原町)に安置されていました。
現在は藤枝市の文化財に指定され、ここ専称寺に保管されています。
この像には、1726年に江戸湯島天神の西に住んでいた柑本南甫(こうもとなんぽ)が西林寺に奉納したと浦底に記されています。
高さは50センチメートルほどの小ぶりなものですが、西行法師はこんなかんじだったんだろうなぁと思わせるような、風雅で温和はお顔立ちをしています。
たかさ54センチメートルの、怒りのぎょうそうが ちからづよくひょうげんされています。かまくらじだいにつくられたそうです。
今では、毎月の不動尊の縁日に以前不動院にあった不動堂にお戻しし、お祭りの供養を行っています。
不動明王は、普段は柔和な大日如来が、優しさだけでは通用しない人々を救済するために、あえて怒りの形相をしているのです。
邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進もうとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれる存在であり、全国各地ではお不動さん、または不動尊と呼ばれ親しまれています。
迷いの世界から煩悩を絶ちきり、仏の道を教えてくれる尊い存在なのです。
引用元:よりそうお葬式
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梅林院 ばいりんいん
藤枝市岡部町桂島の谷川にある谷川山 梅林院は、十一面千手観音菩提を御本尊とする、牧之原市坂口の石雲院の末寺にあたる曹洞宗のお寺です。
曹洞宗のなかでも界岩派(かいがんは)と呼ばれる八十あまりのお寺の本山として500年以上に渡って法灯を守ってきた由緒ある古いお寺です。
梅林院の本堂をはじめとする建物も大きなお寺にふさわしい威厳を持ち、落ち着いた渓流の音と谷川の山と一体となっています。
梅林院の歴史
この梅林院が真言宗のお寺から曹洞宗に改宗されて蘇ったのは、1488年でのことです。
このころの時代は、応仁の乱こそ収まったものの、幕府の力は弱まり群雄が割拠し、争乱の真っただ中の戦国時代に突入していた頃でした。
このあたりの駿河の国では、今川家七代氏親が小鹿範満と覇権争いに勝利し、いよいよ駿河の支配を固めようとしていた時代でした。
そのころ、遠州石雲院に崇芝性岱(そうししょうたい)という優れた禅の師匠がいて、勝間田氏の庇護を受けながら、数多くの俊才を指導していました。
その中でも七哲と呼ばれた俊傑がおり、彼らは師の教えを広めるために、曹洞宗寺院を次々と開創していきました。
この七哲のなかの第三法子であった界岩繁越(かいがんはんのつ)は、この地の郷士であった朝比奈氏の支援を受けて、この桂島に古くからある真言宗の小さい寺を改めて、修行僧の養育と朝比奈家の先祖供養のために梅林院を開創しました。
曹洞宗は、「曹洞土民」といわれ、鎌倉時代から室町時代にかけて農村地域の民衆の中に溶け込み、曹洞宗の教えを広めていきました。
このことから、梅林院で行われていた修行も、坐禅と語録の勉強だけではなく、農業や農民達との普段の生活を通した人格形成も修行の場でありました。
檀家には、葬儀や年開忌の供養を営み、授戒会や盂蘭盆を開いて法や人の道を説き、魂の救済などの活動をしていました。
このような宗教行事は、その土地の守護大名や土豪にとっては、家臣や領民を教育し、一族の結束を固める役割を果たしました。
梅林院が開創されると、界岩繁越(かいがんはんのつ)の名声を慕って、多くの修行者が集まり、梅林院は、禅の道場として発展していきました。
その後の歴代住職も、梅林院を守るだけでなく、多くの人材を育て、次々に末寺(梅林院の下に続くお寺)を開創しました。
現在、梅林院の末寺は、茨城県笠間市の龍泉院、同県筑西市の龍泉院、この付近では常楽院(高田)、萬松院(子持坂)、最林寺(下藪田)、総善寺(殿)、光泰寺(内谷)、永源院(岡部)など15のお寺があります。
これら15の末寺からさらに孫末寺が開創され、岡部、葉梨、朝比奈、広幡、焼津市の大富、和田のほとんどのお寺は、界岩派に属しています。
このように、梅林院は、焼津市坂本の林叟院とともに、この志太地域を代表する本寺としての格式を持つようになりました。
石雲院一口メモ
石雲院は牧之原市坂口にある名刹です。
1455年に、勝間田氏の菩提寺として、崇芝性岱(そうししょうたい)により開山されました。
このお寺は、今川氏、武田氏、徳川氏と有力な大名に庇護されたほか、崇芝さんが弟子を多く育て、中でも石雲院七哲と呼ばれた俊傑たちが、各地で駿河、遠州地方を中心に今では名刹となっているお寺を次々に開創したことから全国に800以上の末寺を抱える中本山となりました。
背後に要する高尾山は、富士山静岡空港建設のために切り開かれており、これにちなんで、空港ターミナルビル東側に設けられた施設に「石雲院展望デッキ」が設けられました。
石雲院七哲と開創したお寺
大空玄虎(伊勢浄眼寺)
賢仲繁哲(駿河林叟院・焼津市)
界岩繁越(駿河梅林院・藤枝市桂島)
季雲永岳(遠江円成寺・牧之原市)
辰応性寅(駿河増善寺・静岡市)
大有良栄(下野元性院)
隆渓繁紹(遠江華厳院・掛川市)、(伊豆修禅寺・伊豆市)
谷川山 梅林院 の場所
かんのんどうには、てんじょうのえや、もくじきぶつなどがあります。
いつもはかぎがしまっていますので、見学したいときは、お寺におねがいしてください。
小さな観音堂ですが、もとは日光山 神入寺(じんぎょじ)と呼ばれたお寺の本堂でした。
建物は天台密教の風情を残しています。
明治8年・1875年に梅林院の末寺となりました。
明治15年に梅林院が焼失したため、本堂として神入寺から移築し、昭和4年に梅林院本堂が再建された時には、観音堂として現在の場所に再度移築されました。
格天井(ごうてんじょう)には、人物・花・鳥・動物・風景などが色鮮やかに描かれている貴重なものです。
この中で、木食上人が子安観音菩薩像と薬師如来像を彫り上げました。
木食上人が彫り上げた子安観音菩薩像と薬師如来像
本堂の左側の観音堂には、木食上人作の子安観音菩薩像と薬師如来像の二体の微笑仏が安置されています。
この木像は、市の文化財に指定され、梅林院によって大切に保管されています。
木食上人は、45歳のときに千体の仏像を彫ろうと考え、ものすごい信仰心で全国を歩き回り、行く先々で仏像をすごい勢いで彫り続けました。
1800年、木食上人が83才の時にこの岡部宿を訪れました。
6月13日から8月13日までの2ヶ月間で、8体の仏像を彫り上げました。
この桂島の村も訪れ、神入寺に来山し、薬師如来と子安観音の二体を彫り上げ奉納しました。
木喰上人が岡部の地を訪れた際、わずか六日で2体を彫り上げ、8月8日に完成させました。
こやすかんのんぼさつりつぞうは、たかさ96センチメートル、くすのきでつくられている。
かんせい12ねん(1800年)にじんにゅうじというお寺にあったものですが、お寺がなくなるときに梅林院のけいだいに観音堂としてうつされました。そのとき、もくじきさんが岡部で2ヶ月のあいだに6体のもくじきぶつをつくりました。この仏像もそのうちのひとつです。
子安観音菩薩は、こどもがぶじにうまれるように、こどもがぶじにせいちょうするようにまもってくれる神さまです。ひだりわきに赤ちゃんをかかえています。
やくしにょらい りつぞう
やくしにょらいりつぞうは、たかさ96センチメートル、くすのきでつくられています。
ひだりてにくすりのつぼをもち、みぎてでそれをまもっています。
びょうきをなおしてくれるという言い伝えから、多くの人に拝まれてきました。
あみだにょらいはごくらくじょうどにみちびいてくださるのに対して、やくしにょらいはげんせでびょうきなどをすくってくれるといわれています。
こちらはりっぱなかねです。
おねがいすれば、かねをつかせてもらえるそうです。
しょうめんの入り口から入って2階にのぼっていくとかねがあります。
こちらの鐘楼は、神入寺(じんぎょじ)から本堂と一緒に移転されたものです。
当時の大鐘は戦時中に供出されてしまいました。
鐘の音は、遠く焼津の浜当目まで響いたと言われているそうです。
こちらは、梅林院でつくったおまいりのしかたがわかる「にこにこ寺ちゃんねる」の動画です。
ぜひごらんください。
キーワードは入り口付近を探してみよう。
萬松院 ばんしょういん
おかべちょうこもちざかの やまのたかだいにある ばんしょういん は ならじだい じんき3ねんに ぎょうき というえらいおしょうさんによって つくられました。
むろまちじだいの きょうろくねんかん 1530ねんごろに おしょうさんが 岡部氏のちからをかりて つくりなおしました。
ばんしょういんのみどころは 岡部氏のおはかです。
岡部氏は、鎌倉幕府 今川家 武田家、徳川家につかえ ゆうもうなたたかいぶりがたたえられました。
さいごは 今のおおさか きしわだはんしゅとして めいじいしんをむかえたそうです。
キーワードのありかは石に注意!!
鴫谷家の長屋門 しぎやけのながやもん
「しぎやけ ながやもん」は、えどじだい、たなかはん の おいしゃさんだった しぎやさんちの おうちのもんです。
いまからだいたい 160年まえ の1858年に しぎやさんが ながやもんをつくりました。
しぎやさんちは、もんのなかにあるへやで、おいしゃさんとして かんじゃさんのしんさつをしていました。
ながやもんのおおきさは たかさ6.5メートル、ながさ17メートル、おくゆき4.5メートルだよ。
ふじえだしでは かやぶきのたてものがのこっているのは、一つだけです。
それがしぎやさんちの ながやもん です。
かやぶきの かやというの、はススキなどのくさのことです。
むかしは すすきをたばにしてやねにしていたんだよ。
やねを したからみてみよう。
かやぶきの やねのあつさや かや(すすき)のたばがやねになっているのがわかるよ。
むかって右がわは、どまのへやになっていて、むかしは やねをなおすための かやや お米などをしまってあったよ。
今は、むかしのひとがつかっていた のうぎょうの どうぐを見ることができる しりょうかんになっているよ。
かやぶきやねを うちがわから見たところだよ。
やねは、雨がながれやすいように かくどを急にしてつくられていたよ。
しぜんのざいりょうでつくられていたかやぶきやねは、なつはすずしくて ふゆはあったっかくすごすことができたんだよ。
かやぶき屋根は、20ねんくらいで あたらしいかやにこうかんしなければいけないんだよ。
今のやねは、平成13ねんにつくりなおしたものなんだよ。
キーワードは