気をつけること・おねがい
次のことにご注意のうえ、楽しいイベントとなるようご協力をおねがいいたします
親子ふれあい郷土探検は、期間中に参加者が自由に施設を散策することになります。
岡部小学校PTAでは、事故等の責任を負うことができません。
原則として各家庭の責任で、「親子安全第一」と「訪問先の施設に迷惑をかけない」の2点にご注意のうえ、ご参加くださいますようお願いします。
各施設には大変貴重な品々があります。
施設内を観覧される際は、「展示物に触れない」、「施設内を走り回らない」など、「基本的なマナー」と「行き先の施設のきまり」を守ってください。
また、コロナウイルス感染防止対策として「マスク着用」、「手指の消毒」、「ソーシャルディスタンスの確保」の徹底をお願いします。
皆様が安全に、そして有意義に「親子ふれあい郷土探検」を楽しんでいただけますよう、ご祈念いたします。
ルールのせつめい
親子ふれあい郷土探検のルールを説明させていただきます。
①岡部小学校学区内の観光ポイント15か所に、それぞれにひらがな1文字(キーワード)が設置されていますので、探検してそれらのキーワードをゲットしたら、学校で配られた記入用紙に書き込んでください。
場所の一覧、マップ、説明はこちらをクリック。
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②各ポイントを探検し、キーワードをあつめて学校でもらった紙に記入してください。
③5こ以上のキーワードをあつめたら、実施期間中の柏屋営業時間内に「柏屋・本陣案内所(入館券売所)」にもっていくと、記入した用紙と引き換えに粗品がもらえます。
粗品は、岡部小学校児童1人につき1こもらえます。
記入用紙は、集計してから後日返却します。
実施期間:令和2年11月15日(日)9時~令和2年11月29日(日)15時
兜堰堤 かぶとえんてい
☆ ぜんぶのチェックポイントを見る ☆
100年を超えても静かに活躍し続ける「兜堰堤(かぶとえんてい)」
明治43年8月7日~8日の豪雨によって、志太郡一帯の山地では、1200箇所を超える山崩れが生じ、下流の平野も未曾有の大水害に見舞われました。
昭和44年1月には、静岡県により、この地域の災害調査結果が報告されました。
このような大災害が二度と起こらぬように、当時の岡部町長の桑原徳太郎氏と当時の静岡県議会議員であった仁科梅太郎氏の働きかけによって砂防工事が行われました。
砂防工事は明治45年(1912)から行われ、1.2kmの間に大小8基の堰堤と2基の流路工を整備して、わずか3年後の大正3年(1914)に完成しました。
その工法は、オランダの土木技師ヨハネス・デ・レーケによって日本にもたらされたロックヒルダム(巨石積堰堤)という方式、ヨハネス本人から直接指導を受け工事を行いました。
当時の工事は人の手や馬を使って行われ、大量の大石は、ソリやショイコで運びました。
堰堤の石集めは、「集落内なら、どこの山の石を採ってもよい」との申し合わせがあり、30貫目(112.5キログラム)の石を運ぶと駄賃が貰えたそうです。
この大石を使って荒れた沢に台形の石組を築いた後、周りを土砂で埋め、その上に更に石組みを築いていきました。
ともあれ、道路や機会のない時代、すごい大工事であったことが想像されます。
そうして築いた堰堤の形が「兜(かぶと)」に似ていることから、「兜堰堤」と呼ばれています。
木和田川では、100年以上経過した現在でも全8基の堰堤がすべて静かに活躍してくれています。
木和田川の砂防堰堤群は、全国的にも貴重な歴史的砂防施設であるため、静岡県では平成元年から平成12年にかけて「木和田川砂防環境整備事業」・「砂防学習モデルゾーン事業」を実施し、県民に憩いと安らぎの場を提供するとともに、砂防事業に関心を持ってもらえるよう“砂防学習ゾーン”として整備しました。
これにあわせ、当時の岡部町は、平成2年から平成8年にかけて「つたの細道公園整備事業」を実施し、宇津ノ谷古道の散策や砂防学習・自然とのふれあいの拠点として整備しました。
そして国は、平成14年・2002年6月25日に「木和田川砂防1号堰堤から8号堰堤」の8基を、同年8月21日には「木和田川1号・2号流路工」の2基を登録有形文化財として登録しました。
1号堰堤
つたの細道公園のトイレの横の吊り橋の上流にあります。
2号堰堤
つたの細道公園の太鼓橋の下流にある一番目立つ堰堤です。
つたの細道 岡部側登り口
3号堰堤
つたの細道の50mくらい上流にあります。
4から8号堰堤と1・2号流路工には歩かないと行けません。
至る所にイノシシの遊んだ形跡があります。
口笛を吹きながら、手をたたきながら行ってきました。
ダニ対策を忘れずに。
5号堰堤からは遊歩道ではなく流路を、足元に注意して歩きました。
4号堰堤
車で行ける道の突き当りの上流にあります。ここから先は遊歩道です。
5号堰堤
6号堰堤
7号堰堤
8号堰堤 と 流路工
明治トンネル めいじとんねる
現役トンネルとして 全国初の国の登録文化財
宇津ノ谷峠を越える東海道は、古代から重要な街道で、峠越えは、難所として知られていました。
明治7年(1874)、交通の利便性を良くするため、杉山喜平治さんをはじめとした地元の有力者7人が発起人となって、トンネル工事を開始しました。
総工費は約24,800円、工事関係者は全部で15万人で、明治9年6月に完成しました。
明治時代のお金の価値は下のサイトを参考にすると、当時の1円は、今の20,000円だそうです。
とすると、単純計算だと総工費は今だと約5億円ということになります。
地盤の強さの関係と、トンネルの長さを短くし、工事費を安くするため、途中で「く」の字に折れ曲がったトンネルをつくるために、静岡県に許可申請をしていました。
その古文書が柏屋で発見されているそうです。
当時、静岡市側の入り口は、青石積、岡部側の入り口は角材を合掌造りに組んだ木枠でした。
日本初の有料トンネルとして、明治9年11月から使用開始されましたが、明治29年に照明用のカンテラが原因の火事で、トンネル入り口が崩れたため、通行できなくなりました。
現在残されているトンネルは、明治36年に再整備されたレンガ積のトンネルで、長さが203メートル、直線ルートに修正され、明治37年に完成しました。
イギリス式の4重レンガ積の工法で作られており、技術的に高い評価を受けています。
昭和5年、自動車の通行が主流になると、この西側に近代的な旧国道トンネルが開通し、このトンネルはあまり使用されなくなったため、現代まで、良好に保存されました。
平成9年5月7日、現役のトンネルとしては、全国で初めて国の登録文化財になりました。
宇津ノ谷隧道群(明治・大正・昭和)が2018年土木学会選奨土木遺産に認定
宇津ノ谷隧道群は、ひとつの峠において、日本で2番目にできた明治の近代隧道をはじめ、大正、昭和の各時代にそれぞれ建設された3つの隧道です。
2018年に建設から50年以上経過した価値が高く、後世に伝えるべき施設であるとして土木遺産に認定されました。
平成に建設されたトンネルは含まれていませんが、現在全部で4つの隧道が存在しています。
土木学会公式サイトはこちら ⇒ 宇津ノ谷隧道群(明治・大正・昭和)
神神社 みわじんじゃ
神神社は、大物主神(おおものぬしのかみ)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、葛城一言主神(かつらぎひとことぬしのかみ)を祭神とした、古代から栄えてきた由緒ある神社です。
神神社のはじまりは、644年4月です。
東国に病気が大流行し、人々が苦しみ、なすすべもありませんでした。
その時の皇極天皇は、先代の同じような状況で疫病を鎮めたという吉例にならって、その例の神職であった意富多多根古命(おおたたねこのみこと)の子孫である三輪四位(みわしい)を神主として、この三輪の里に三輪の神(大物主神)をお祀りしたところ、疫病がたちどころに治まり、東国の人民を救っていただいたのが神神社の創建の由来だということです。
三輪という地名もこの「神神社」に由来するものです。
「神」を「ミワ」と読むのは、古代大和で神と言えば三輪の神をさすことから、自然にそう読まれるようになったと言われています。
本社である大神神社に対して、こちらは分社であるため、「大」をとって「神神社」と
称しました。
本社の大神神社は、日本で一番古い神社であると言われており、三輪鳥居(三つ鳥居)の奥は、誰も入らない、木を切ることもしない原生林で、これが神様のお住まいであるから、一般的な神社のように本殿がなく、古代の祭祀のやり方が、今も続いています。
ここ神神社でも昔は本殿がなく、三つ鳥居の奥の岩境が古来からの祭祀場でした。
そんななか、古来からの山を祀るという形態を改めて、1820年頃に本殿を建て祭祀が始まったと推定されています。
ここ神神社には、特筆すべき点が二点あります。
1点目は、三つ鳥居が存在することです。
この鳥居は、一般の鳥居と機能が全く異なります。
一般の鳥居は、人間がくぐるためにありますが、三つ鳥居は、神界と人間界を区切る機能をもっている、つまり人間がくぐってはいけない鳥居なのです。
そして、静岡県内にはここにしか存在しておらず、全国の三輪系の神社に問い合わせても三つ鳥居を確認することはできなかったそうです。
全国でも、三つ鳥居が形として、機能的にも現存しているのは、大和の大神神社とここだけかもしれません。
ただし、本家の三つ鳥居は、屋根とお扉がついており、国の重要文化財ですが、こちらは、自然の丸太を組み合わせた原初的で素朴な造りで、十二、三年で立て替えを行っています。
2点目は、山宮祭(やまみやさい)という山を祀る古代祭祀が今と昔と変わらず行われていることです。
明治初年に国によって、祭祀の統一化が図られましたが、ここでは現在も古代祭祀の形式をそのまま行われており、藤枝市の無形文化財に指定されています。
ここ神神社が栄えてきた様子は、様々なことから推定することができます。
平安時代初期に制定された国家の法制書である「延喜式」神名帳に登載された神社であること。
昔は高草山を三輪山と称し、朝比奈川の南側の広幡地区には大神神社がある大和と同じ「上当間」「下当間」という「当間」の地名があり、そこに一の鳥居があったとの記述が国立国会図書館デジタルコレクションの駿国雑志に見られるそうです。
また、昭和38年の耕地整備事業の時には、神神社の南正面の焼津市との境付近から、直径1メートル近くもある木材の一部が発掘され、鳥居前という小字名からも、神神社の二の鳥居の根ではないかと推定されたとのことです。
また、神社の西北方向約300メートルの三輪向原地区に、昭和49年に直径30メートルの円墳が発見されました。
推定される年代は7世紀後半近いことがわかり、神神社の始まり644年頃と重なるため、神神社を祀った人の墓であると推定されました。

十輪寺 じゅうりんじ
宝珠山 十輪寺は、焼津市坂本にある林叟院の末寺にあたり、延命地蔵菩薩を本尊とするお寺です。
岡部町三輪は、かなり古い時代から人々が住みついた村でした。
十輪寺の目と鼻の先には、神神社(みわじんじゃ)が鎮座しています。
十輪寺は、高草山の麓にあり、茶畑と蜜柑畑に包まれた落ち着いた雰囲気の山寺です。
お寺の歴史は、1610年頃までは、平僧地という格の低い小さなお寺でした。
創られた年月や当時の宗派はわかりませんが、宝珠山という山号にまつわる伝説は、焼津神社や神神社ともかかわっているので、実は結構古いのかもしれません。
三輪の地には、神神社開創当時から「五社五苗(ごしゃごみょう)」と呼ばれる五つの氏神様と五軒の旧家があったと言われていますので、昔の十輪寺は、小さなお寺といえどもこれらの人々に篤く支えられていたことでしょう。
戦国時代が終わり、江戸時代に移り変わった元和年間1620年頃、林叟院の照山元春師の弟子の嘯山虎公(しょうざんこうこう)和尚が十輪寺の住職になりました。
この嘯山和尚は、仏様を敬う心がとても篤く、村人の中に溶け込んで皆から慕われ、尊敬されていたそうです。
嘯山和尚は、この十輪寺を曹洞宗の立派なお寺として再興したいと一念発起し、村の有力者の協力をいただき、1624年9月に本堂の再建を果たし、師匠の林叟院九世である照山元春を迎え開山しました。
こうして、十輪寺は、曹洞宗林叟院の末寺として、平僧地から法地寺院に格上げされ、立派に再興されました。
その後十輪寺は、三輪村の人々のこころのよりどころとして発展してきましたが、1700年頃と1780年に諸堂を全焼、1885年・明治18年には、庫裡を焼失するという3度の火災に遭ってしまいました。
しかし、その度に檀信徒の篤い信仰に支えられ、常に消失前より良い伽藍を再建してきました。
戦後まもない昭和24年には、耐久性の高い造船用のケヤキ材によって本格的な山門を再建しました。
昭和40年代からは、村内に大規模な団地が造成され始めたため、将来を見通し昭和52年に霊園墓地を造成、さらに昭和55年には、開山堂位牌堂を新築し、境内地も整備されました。
平成13年からは「もくれん」の植樹に着手し、今では毎年3月になると、テレビや新聞の恒例の風物詩として報道され、多くのお客様が訪れる藤枝市の観光ポイントになっています。
平成27年には、彫刻家杉村孝氏の作品を配した「地蔵菩薩 遊化の庭(ゆげのにわ)」が完成しました。
十輪寺正面に鎮守山という3月になるとモクレンで覆われる場所があります。
その頂上から志太平野の良好な眺望が楽しめます。
目の前には神神社の鎮守の森が見えます。
キーワードは本堂のなかに! しずかに見させてもらってね。コロナ対策もお願いします!!