岡部小学校 親子ふれあい郷土探検!!

「親子ふれあい郷土探検」にご参加いただきありがとうございます。親子でキーワードラリーを楽しみながら、郷土の話題で盛り上がっていただけましたら幸いです。(*^ワ^*)  このイベントの実施期間は令和2年11月15日(日)9時~11月29日(日)15時です。

梅林院 ばいりんいん

 

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藤枝市岡部町桂島の谷川にある谷川山 梅林院は、十一面千手観音菩提を御本尊とする、牧之原市坂口の石雲院の末寺にあたる曹洞宗のお寺です。

曹洞宗のなかでも界岩派(かいがんは)と呼ばれる八十あまりのお寺の本山として500年以上に渡って法灯を守ってきた由緒ある古いお寺です。

梅林院の本堂をはじめとする建物も大きなお寺にふさわしい威厳を持ち、落ち着いた渓流の音と谷川の山と一体となっています。


梅林院の歴史

この梅林院が真言宗のお寺から曹洞宗に改宗されて蘇ったのは、1488年でのことです。

このころの時代は、応仁の乱こそ収まったものの、幕府の力は弱まり群雄が割拠し、争乱の真っただ中の戦国時代に突入していた頃でした。

このあたりの駿河の国では、今川家七代氏親が小鹿範満と覇権争いに勝利し、いよいよ駿河の支配を固めようとしていた時代でした。

そのころ、遠州石雲院に崇芝性岱(そうししょうたい)という優れた禅の師匠がいて、勝間田氏の庇護を受けながら、数多くの俊才を指導していました。

その中でも七哲と呼ばれた俊傑がおり、彼らは師の教えを広めるために、曹洞宗寺院を次々と開創していきました。

この七哲のなかの第三法子であった界岩繁越(かいがんはんのつ)は、この地の郷士であった朝比奈氏の支援を受けて、この桂島に古くからある真言宗の小さい寺を改めて、修行僧の養育と朝比奈家の先祖供養のために梅林院を開創しました。

 

曹洞宗は、「曹洞土民」といわれ、鎌倉時代から室町時代にかけて農村地域の民衆の中に溶け込み、曹洞宗の教えを広めていきました。

このことから、梅林院で行われていた修行も、坐禅と語録の勉強だけではなく、農業や農民達との普段の生活を通した人格形成も修行の場でありました。

檀家には、葬儀や年開忌の供養を営み、授戒会や盂蘭盆を開いて法や人の道を説き、魂の救済などの活動をしていました。

このような宗教行事は、その土地の守護大名土豪にとっては、家臣や領民を教育し、一族の結束を固める役割を果たしました。

梅林院が開創されると、界岩繁越(かいがんはんのつ)の名声を慕って、多くの修行者が集まり、梅林院は、禅の道場として発展していきました。

その後の歴代住職も、梅林院を守るだけでなく、多くの人材を育て、次々に末寺(梅林院の下に続くお寺)を開創しました。

現在、梅林院の末寺は、茨城県笠間市の龍泉院、同県筑西市の龍泉院、この付近では常楽院(高田)、萬松院(子持坂)、最林寺(下藪田)、総善寺(殿)、光泰寺(内谷)、永源院(岡部)など15のお寺があります。
これら15の末寺からさらに孫末寺が開創され、岡部、葉梨、朝比奈、広幡、焼津市の大富、和田のほとんどのお寺は、界岩派に属しています。

このように、梅林院は、焼津市坂本の林叟院とともに、この志太地域を代表する本寺としての格式を持つようになりました。

 


石雲院一口メモ

石雲院は牧之原市坂口にある名刹です。
1455年に、勝間田氏の菩提寺として、崇芝性岱(そうししょうたい)により開山されました。
このお寺は、今川氏、武田氏、徳川氏と有力な大名に庇護されたほか、崇芝さんが弟子を多く育て、中でも石雲院七哲と呼ばれた俊傑たちが、各地で駿河遠州地方を中心に今では名刹となっているお寺を次々に開創したことから全国に800以上の末寺を抱える中本山となりました。

背後に要する高尾山は、富士山静岡空港建設のために切り開かれており、これにちなんで、空港ターミナルビル東側に設けられた施設に「石雲院展望デッキ」が設けられました。

 

石雲院七哲と開創したお寺

大空玄虎(伊勢浄眼寺)
賢仲繁哲(駿河林叟院・焼津市
界岩繁越(駿河梅林院・藤枝市桂島)
季雲永岳(遠江円成寺牧之原市
辰応性寅(駿河増善寺・静岡市
大有良栄(下野元性院)
隆渓繁紹(遠江華厳院・掛川市)、(伊豆修禅寺伊豆市

  

 谷川山 梅林院 の場所

www.google.com

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ばいりんいん


 

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ばいりんいん さんどう

 

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ほんどうのなか

 

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しちふくじん べんざいそんてんのぞう

 

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かんのんどう

かんのんどうには、てんじょうのえや、もくじきぶつなどがあります。 

いつもはかぎがしまっていますので、見学したいときは、お寺におねがいしてください。

 

小さな観音堂ですが、もとは日光山 神入寺(じんぎょじ)と呼ばれたお寺の本堂でした。

建物は天台密教の風情を残しています。

明治8年・1875年に梅林院の末寺となりました。

明治15年に梅林院が焼失したため、本堂として神入寺から移築し、昭和4年に梅林院本堂が再建された時には、観音堂として現在の場所に再度移築されました。

 

 

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かんのんどうの中のてんじょう

格天井(ごうてんじょう)には、人物・花・鳥・動物・風景などが色鮮やかに描かれている貴重なものです。

 

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かんのんどうのぶつぞう

 この中で、木食上人が子安観音菩薩像と薬師如来像を彫り上げました。

 

 

木食上人が彫り上げた子安観音菩薩像と薬師如来

本堂の左側の観音堂には、木食上人作の子安観音菩薩像と薬師如来像の二体の微笑仏が安置されています。

この木像は、市の文化財に指定され、梅林院によって大切に保管されています。
木食上人は、45歳のときに千体の仏像を彫ろうと考え、ものすごい信仰心で全国を歩き回り、行く先々で仏像をすごい勢いで彫り続けました。
1800年、木食上人が83才の時にこの岡部宿を訪れました。
6月13日から8月13日までの2ヶ月間で、8体の仏像を彫り上げました。
この桂島の村も訪れ、神入寺に来山し、薬師如来と子安観音の二体を彫り上げ奉納しました。

  

木喰上人が岡部の地を訪れた際、わずか六日で2体を彫り上げ、8月8日に完成させました。

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こやすかんのんぼさつ りつぞう

こやすかんのんぼさつりつぞうは、たかさ96センチメートル、くすのきでつくられている。
かんせい12ねん(1800年)にじんにゅうじというお寺にあったものですが、お寺がなくなるときに梅林院のけいだいに観音堂としてうつされました。そのとき、もくじきさんが岡部で2ヶ月のあいだに6体のもくじきぶつをつくりました。この仏像もそのうちのひとつです。
子安観音菩薩は、こどもがぶじにうまれるように、こどもがぶじにせいちょうするようにまもってくれる神さまです。ひだりわきに赤ちゃんをかかえています。

 

 

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       やくしにょらい りつぞう

 やくしにょらいりつぞうは、たかさ96センチメートル、くすのきでつくられています。
ひだりてにくすりのつぼをもち、みぎてでそれをまもっています。
びょうきをなおしてくれるという言い伝えから、多くの人に拝まれてきました。
あみだにょらいはごくらくじょうどにみちびいてくださるのに対して、やくしにょらいはげんせでびょうきなどをすくってくれるといわれています。

 

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かね

こちらはりっぱなかねです。

おねがいすれば、かねをつかせてもらえるそうです。

しょうめんの入り口から入って2階にのぼっていくとかねがあります。

 

こちらの鐘楼は、神入寺(じんぎょじ)から本堂と一緒に移転されたものです。

当時の大鐘は戦時中に供出されてしまいました。

鐘の音は、遠く焼津の浜当目まで響いたと言われているそうです。

 

 

 

こちらは、梅林院でつくったおまいりのしかたがわかる「にこにこ寺ちゃんねる」の動画です。

ぜひごらんください。

www.youtube.com

 

 

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